ホルニストが見たベートーヴェンの素顔(11)

エキストラ.ベートーヴェンとホルン(執筆:塚田 聡)

雑誌カンパネラに掲載された記事ではありません。

 ホルンはベートーヴェンによってソナタを作曲してもらった唯一の管楽器としての栄誉に浴しています。ボヘミアのホルン奏者プント(またの名をシュティッヒ)と演奏するために大急ぎで作曲されたホルンソナタヘ長調作品17は、ベートーヴェンとプントによって複数の場所で演奏されており、ベートーヴェンお気に入りの作品でした。

 ホルンというとぐるぐる巻になった複雑な楽器を思い浮かべられるでしょうが、当時のホルンはバルブのような近代的なものはなく、ただの長い真鍮の管を巻いただけのとてもシンプルなものでした(写真1参照)。

 「こんなものでどうして音楽を奏でることができるの?」と思われるのは最もなこと。ただ吹き込むだけでは自然倍音の音、簡単に言うと音階の核になるド・ミ・ソの音しか出すことができません。ただし、あらゆる調が吹奏できるように、クルークと呼ばれる替え管(写真2参照)を付け替え、あらゆる調に対応できるようになっていました。

 各調を吹奏するといっても、そのままで吹ける音は各調の自然倍音に限られます。これではあまりに心許ないですね。自然倍音以外の音を演奏する手段はあるのでしょうか。

 ホルン奏者は今でもベルの中に右手を入れて吹いていますが、この右手が重要な役割を演じています。ベルの中にある右手を操作することにより、自然倍音に隣接したいくつかの音が吹けるようになるのです。それでも全ての音を演奏することはできない上、必死に音階を演奏しようにも右手を塞ぐことによる金属的なストップ音や、こもり気味の音が混じってしまいます。全ての音が均質に奏でられるわけではありません。

 モーツァルトやハイドンは一部の例外を除き、くぐもった音や金属的な音質の、ホルンの出にくい音を避けるように、つまりド・ミ・ソ以外の音はあまり使用しないように注意しながら曲を作っています。そのため、シンフォニーのソナタ楽章の展開部(遠隔調に転調するポイント)ではホルンにほとんど活躍の場が与えられず、大概再現部に戻る前のドミナント音(ソ)から参加するのが常です。

 ベートーヴェンはボン時代にホルンを宮廷オーケストラのホルン奏者、ジムロック(後に出版社として成功)に習ったことがあり、作曲法の難しいホルンの扱いに精通していました。

 ベートーヴェンにとって、彼の作品の劇的な展開部にホルンが不参加というのは考えられないことでした。ベートーヴェンは実に際どい技術、ストップ音を躊躇することなく要求し、ストップ音の緊張感を積極的に効果的に取り込んでいます。ストップ音で緊張させオープンで解決するという劇的な効果を各所に見ることができます。例えば交響曲第3番「英雄」の第3楽章トリオの最終和音は第1と第2ホルンはストップ音になり緊張度の高い音が奏でられます。

 英雄交響曲の第1楽章は変ホ長調ですので、3人いるホルン奏者は「変ホ調」の管をもって臨みます。ところがベートーヴェンは展開部が開けた後、変ホ長調でチェロにメロディーを弾かせた後、一音上げてヘ長調に転調し主題を確保していますが、その旋律をどうしてもホルンに吹かせたかったようです。ところが「変ホ調」の管でヘ調の旋律を吹くことはできません。ベートーヴェンは頭を悩ませた末、ここで1番ホルンだけ「ヘ調」の管に替えさせることを思いつきました。この9小節間だけを「ヘ調」の管で吹かせるのです(408小節目から416小節目まで)。そのために1番ホルンは楽章中にクルーク(替え管)を替えなければなりません。このソロのために1番ホルンは前に41小節間、後に89小節間、クルーク交換のために暇を与えられています。その間は、2番と3番のホルン奏者が2人だけで「変ホ調」の管でせっせとがんばるのです。なんとも大胆な発想ではありませんか。

 ホルンに精通していたベートーヴェンは、各調独自のキャラクターもしっかりと押さえていました。ヘ調、変ホ調は比較的長い管で、いわゆる森のホルン(Waldhorn)らしい音がでます。第3番、第6番、第8番の交響曲ではこの管を主に用います。イ調の管は短くトランペットに似た鋭い響きを持っています。この管は第7番の交響曲の両端楽章で用いられています。楽曲の調性を決める際にこんなところまで考慮していたとは驚くべきことです。

 管による性格、また各音による音質の変化というものは、ベートーヴェンにとって決して「負」のものではありませんでした。その特性を生かしつつ曲が書かれているのです。

 産業革命後、ホルンにはバルブがつけられ、全ての音、全ての調が均質に鳴らせるようになりました。ところがその現代の楽器(写真3参照)ではナチュラルホルンのような劇的な音質の変化はなく、ベートーヴェンの意図した本来の様々なアイデアを実現に移すのがかえって難しくなっています。

写真1

写真2

写真3