ピアニストが見たベートーヴェンの素顔(7)

ベートーヴェンゆかりの地〔1.ウィーンとその近郊〕

2002年2月号掲載(雑誌カンパネラ)

 ベートーヴェンは眺めの美しい部屋が好きだった。ベートーヴェンのゆかりの地を訪れてまさしくそう思いました。9月、オーストリア、ドイツを巡る二週間半の旅へ出ました。今回はこの旅からのレポートです。

 ウィーンとその近郊でベートーヴェンは80回も引っ越しを重ねました。ですからウィーンの街を散策していると、「何年から何年までベートーヴェンが住み作品○○がここで作曲された」と記載されたプレートに度々出逢います。

 メルカーバスタイにある「パスクァラティハウス」は、かつての堡塁後に建てられたもので、高台にあり現在ベートーヴェン記念館になっています。建物を入ると円筒形の石造りの螺旋階段は当時のままの趣。ベートーヴェンもこの階段を毎日昇り降りしていたのかと思いを馳せながら「あー、彼は結構体力があったのね」と息を切らせながら一気に4階へ昇りました。ウィーンの街の見晴らしが良く、窓からの風が心地良い。1804年から08年、再び1810年から14年の間継続的に住んだというので、ベートーヴェンとしては最も長く住んだ家。充実した彼の生活ぶりが窺えます。

 シュテファン大寺院から裏通りを歩いてみました。ウィーンは裏通りが美しく、特にリンクの中は車通りもあまりなく、角の丸くなった石畳の歩道に街路樹の葉が黄枯茶に色づき、しっとりとした落ちついた風情があります。1809年、ナポレオン率いるフランス軍がウィーンに迫り来ると、ベートーヴェンのパトロンであったルドルフ大公など要人は、ウィーンから難を逃れるため郊外に避難しました。そんな中、ベートーヴェンもバール小路にある弟のカスパール・カール家の地下室に避難します。私はその旧カール家の対面のカフェに昼食をとるために入りましたが、そこには19世紀初頭につくられたスクエアピアノが置かれており、たちまちタイムスリップした気分になったものです。モーツァルト最期の家も間近いこんな小路を歩いていると、確かに曲がり角から後ろ手をした散歩好きのベートーヴェンが、ひょっこり現れてくるような当時の雰囲気が偲ばれます。

 こんな狭いウィーン市内を散策しているとベートーヴェンも必ずや知り合いとすれ違い、そういった人たちとカフェで話、または筆談を楽しんだりしたことでしょう。ベートーヴェンは生前多くの友人やパトロンに恵まれ、彼等との交流から少なからぬ作品が生み出されてゆきました。1796年から自分の邸宅に私設オーケストラを持ち『英雄交響曲』を初演するなど、ベートーヴェンを強力にバックアップしたボヘミアの貴族、ロプコヴィッツ侯爵の邸宅の構えを、現在でもウィーン国立劇場の裏手に見ることができます。

 ベートーヴェン最期の家、シュヴァルツシュパニエールハウスは残念ながら当時とは違う建物に建て替えられてしまっていますが、リンクから外れてフォルクスオーパー方面に路面電車でひとつ行ったところに「シュヴァルツシュパニエール通り」と名付けられた通りがあり名残を残しています。当時、このシュヴァルツシュパニエールハウスの前は広場になっていて、ベートーヴェンの死の報道を聞いたウィーン中の人々が、葬儀の行われた1827年3月29日、2万人も集まったということです。

 翌日、私は1802年にベートーヴェンが「ただ芸術のみが、それが私を思い止まらせた。…」としたためた遺書で有名なハイリゲンシュタットへ向かいました。当時は馬車で行ったのでしょうからウィーンから「旅」に出るという感じだったかもしれません。今は市内から路面電車で約30分というあっけない近さです。その途中に交響曲第三番を書いたエロイカハウスがあり立ち寄りました。宇宙的なスケールの大曲を作曲した家なのに、思いの外狭く小ぢんまりとしていました。部屋の大きさは作品の大きさと関係ありませんね。

 ハイリゲンシュタットに着くとそこはすっかり山の薫りです。空気の澄んだ透明感のある村。遺書を書いた家は、ホイリゲという新酒を飲ませるレストランの数件ある小路に、当時のままの古い姿で残っていました。静かで美しく、そして淋しい。家の前のマロニエの木の葉が一枚一枚と風に舞っていて『テンペスト』第3楽章の情景のようでした。

 ベートーヴェンが散策した小川を歩きました。そこは木々の緑が深く、小川の流れる音、小鳥のさえずり、大地の偉大なる力と愛が満ちていました。自然の生きている声を彼は書きとり、その中からさまざまな楽想が沸いてきたのだと、近寄りがたい堅固さではなく勇気や希望を与えてくれる親密な生命ある音楽が生まれたのだと実感しました。『田園交響曲』の作曲された1807年、08年の夏にもベートーヴェンはハイリゲンシュタットに滞在しています。近くの小山に登ると南側斜面は一面ワイン畑。ベートーヴェンもワインを愛飲していたのを思いだしながら、今の時期だけ飲めるワインになる前段階のシュトルムを堪能しました。

 さて、次の日はベートーヴェンが保養を兼ねて1803年から毎年のように訪れた温泉地バーデンへ、ローカル列車で訪れました。温泉地らしいゆったりとしたムードがあり、街中歩行者天国になっています。高級な店が建ち並びショッピングを楽しむ人で溢れていました。ベートーヴェンは夏の間ウィーンを離れて作曲に専念するため、もしくは身体を休めるため避暑地に出かけるのを常としていましたが、このような街では案外社交も忙しかったに違いありません。「バーデンは喧噪がひどく落ち着かない」というベートーヴェンの言葉も理解できます。

 ベートーヴェンの伝記に度々出てくるメートリンク。1805年、18年、19年、20年とベートーヴェンは、甥カールをめぐるトラブル、難聴の悪化した苦しい時期に休息を求めてメートリンクを訪れました。彼を癒した町です。私もバーデンからウィーンに戻る途中にメートリンクに立ち寄りました。西側に散策に最適な森があり、小川があり、今でも静寂と自然を好む人には愛おしく思われる地なのでしょう。メートリンクは『ハンマークラヴィーアソナタ』の楽想が錬られた場所でもあります。この作品の持つ生き生きとした活力と瞑想にひたるような静けさが、この町に似つかわしく感じました。

写真1.パスクァラティハウスのプレート

写真2.ロプコヴィッツ侯爵邸

写真3.バーデンのベートーヴェン聖堂