ベートーヴェンをめぐる女性たち

ピアノを弾きながら女性に愛を語ったベートーヴェン。プライベートな心情が告白されているピアノ音楽の成立には女性の影が色濃く投影されています。ベートーヴェンと関係の深い女性にスポットをあててお届けするシリーズコンサートです。


「ベートーヴェンをめぐる女性たち その1」

~アントニア・ブレンターノとドロテア・エルトマン~

 ベートーヴェンが亡くなった直後、部屋の整理をしていた友人たちは意外な物を発見しました。秘密の引出に、彼が書いた恋文が、二枚の女性の細密画と共に秘蔵されていたのです。これが有名な「不滅の恋人」への手紙です。

 文中で「わが不滅の恋人よ」と呼びかけられている相手は、しかし名前が明らかにされていません。さらに日付はあるが年が書かれていないなど、様々な謎に包まれているのです。この手紙は後世の研究の的になり、その恋人候補も様々な説が出されましたが、近年の研究によりアントニア・ブレンターノにほぼ間違いないであろうと言われています。

 この恋文が書かれたのはベートーヴェン42歳の夏ですが、それから10年ほど後に彼は3曲のクラヴィーアソナタ(作品109、110、111)を作曲しています。それらの作品は「ブレンターノのソナタ」とも呼ばれています。「不滅の恋人/アントニア」と結ばれることはありませんでしたが、時を経て「遙かなる恋人」に変わりながら心の中に生き続ける恋人にこれらのソナタは捧げられたのです。

 作品101のソナタの献呈を受けているドロテア・エルトマンは、ベートーヴェンの弟子でもあります。彼のピアノ曲の演奏にかけては定評のあるピアニストでした。ベートーヴェン自身、彼女を敬愛し、音楽の守護聖女であるツェツィーリアにかけて「親愛な、貴重なドロテア・ツェツィーリア」と呼びかけるほどでした。

2001年1月30日 音楽の友ホール

共演:小森輝彦(バリトン)

プログラム

L.v.ベートーヴェン:

   クラヴィーアソナタ イ長調 作品101、ホ長調 作品109、変イ長調 作品110

   連作歌曲「遙かなる恋人に寄せて」作品98

カンパネラ 2001年4月号 聴いてみた!「おすすめこんさーと」

小倉貴久子ピアノリサイタル ベートーヴェンをめぐる女性たち Vol.1

 本誌に「ピアニストが見たベートーヴェンの素顔」を連載中の小倉貴久子のピアノリサイタルが開かれた。ゲストはバリトンの小森輝彦である。これまで小倉はベートーヴェンやモーツァルトなど主に古典派の作品に取り組んできた。作曲された時代背景や経緯に深い考察を重ね、さらに当時響いていたとされる音そのものの再現を目指し、オリジナル楽器などを用いたそのアプローチには確かに説得力がある。

 この日はモダンピアノを使用したが、プログラムには果たして仕掛があった。死後発見され、相手を特定できず後年研究者たちを悩ませたベートーヴェンの「不滅の恋人」も、近年ではアントニオ・ブレンターノではないかと言われているが、そのブレンターノに捧げられたピアノ・ソナタ第30番作品109と第31番作品110、ベートーヴェンの弟子でピアノの才能を高く評価されていたドロテア・エルトマンに献呈した第28番作品101、加えて、いわゆる連作歌曲「遙かなる恋人に寄せて」である。

 ベートーヴェン縁の女性に関わる曲を取り上げた形だが、それだけではない。これらは全て40代半ばから作曲された、明らかに中期とは異なる内省的で思索的な新しい方向を位置付ける後期の代表的な作品群である。そんな意図も見える中、小倉の演奏は実に瑞々しい。選び抜かれた音色に詩情を常に湛え、全編をロマンティックに生き生きと弾き切ってみせた。小森の歌唱も叙情性に溢れて秀逸、Vol.2は「エルデーディ伯爵夫人」だそうだが、こちらも待ち遠しい。(真嶋雄大氏)


「ベートーヴェンをめぐる女性たち その2」

「音楽の玉手箱 Vol.4」

~アンナ・マリー・エルデーディ伯爵夫人~

 ベートーヴェンの作品は自らの発意と共に様々な状況に影響を受けて作曲されています。特に高い教養を持った貴族の女性たちとの交わりは大きな影響を与えました。近年の研究により従来の身分違いの女性に恋するベートーヴェンとは全く違う作曲家像が浮き彫りになってきています。

 ベートーヴェンが「懺悔聴聞僧」と呼んだエルデーディ伯爵夫人Anna Marie Erdoedy (1779~1837)。ベートーヴェンと一時期共同生活を営んでいたほど親密な友人であった夫人にベートーヴェンは様々な悩み事を相談していました。

 1808年、ナポレオン戦争の混乱から通貨が不安定になり、定収入のないベートーヴェンにとって経済不安が差し迫っていました。そんな折りベートーヴェンに、カッセル宮廷楽長の地位の提供の話がもたらされ、ベートーヴェンはウィーンを去ることを考えていました。そんな彼に対し、エルデーディ伯爵夫人はグライヒェンシュタイン男爵と語らって一計を案じたのです。

 それは、財力豊かな大貴族に働きかけ、彼らの共同出資によってカッセル宮廷楽長の年俸を上回る金額をベートーヴェンに終身受け取れるようにしようというものでした。この年金契約にルドルフ大公、ロプコヴィッツ侯爵およびキンスキー侯爵が応じ、締めて四千フロリンの年金を得ることができるようになりました。この契約によりベートーヴェンはウィーンにとどまり作曲活動に身を入れることができるようになったのです。

 この年金契約が正式にまとまった1809年に、ベートーヴェンはエルデーディ伯爵夫人に感謝の気持ちを込めたのでしょう。作品70の2曲の「ピアノ三重奏曲」を献呈しています。

 変ホ長調の作品70-2は優美な序奏をもつ、全曲が歌にあふれた平和でかくも美しい作品で、この作品を核にこのコンサートは企画されました。

 ウィーン会議のただ中にあった1815年に作曲された2曲のチェロソナタ作品102もエルデーディ伯爵夫人に献呈されたものです。エルデーディ伯爵夫人はシュパンツィヒ弦楽四重奏団の名うてのチェロ奏者、ヨーゼフ・リンケと暮らしていたことがありました。ベートーヴェンもリンケからはチェロの奏法について様々な助言を得ていたとのこと。ピアノの名手でもあったエルデーディ伯爵夫人とリンケとの共演を頭に描いての献呈だったのかもしれません。

 ハ長調作品102-1のチェロソナタは「ピアノとチェロのための自由なソナタ」と題された、古典的な楽章構成から離れた「幻想曲」のような仕立ての作品です。

 当コンサートでは他に、上記2曲と同時代に作曲されたヴァイオリンソナタ ト長調作品96(1812年作曲)と、ピアノソロのための幻想曲(1809年作曲)が演奏されました。

2002年4月10日 東京文化会館 小ホール

出演:小倉貴久子(フォルテピアノ)

   荒井英治(ヴァイオリン)

   花崎 薫(チェロ)

プログラム

L.v.ベートーヴェン:

   幻想曲 作品77

   ヴァイオリンソナタ ト長調 作品96 (第10番)

   チェロソナタ ハ長調 作品102-1 (第4番)

   ピアノ三重奏曲 変ホ長調 作品70-2 (第6番)

使用楽器 マテーウス・アンドレアス・シュタイン Matthaeus Andreas Stein 1820年頃 ウィーン(フォルテピアノ ヤマモトコレクション提供)

音楽の友 2002年6月号 コンサート・レヴュー

音楽の玉手箱(第4回)

 小倉貴久子が自ら主催する室内楽シリーズ〈音楽の玉手箱〉の今回は、ベートーヴェンの良き理解者であり、相談相手でもあったアンナ・マリー・エルデーディ伯爵夫人に焦点が当てられた。オール・ベートーヴェンのプログラムは、彼女に献呈された「チェロ・ソナタ第4番」と、同じ頃作曲された「クラヴィーアのための幻想曲」、「ヴァイオリン・ソナタ第10番」、そして「ピアノ三重奏曲第6番」である。共演は東京フィル・コンサートマスターの荒井英治と新日本フィル首席チェロ奏者の花崎薫、小倉の使用楽器は、やはり同時代の1820年頃ウィーンで製作されたマテーウス・シュタインが運び込まれた。時代を含めた深い考察から生み出されたのは、どちらかというと緊迫感よりも自由で明るい雰囲気であり、典雅なたたずまいに重きを置いた風趣で、得もいわれぬ優美な響きが濃密に再現されていた。それだけに今後は、会場の広さと楽器自体の音量のバランスにも配慮があってよいだろう。(4月10日・東京文化会館)〈真嶋雄大氏〉