モーツァルト 「クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ集 Vol.1」(2枚組)

演奏者:大西律子(ヴァイオリン)、小倉貴久子(フォルテピアノ)

 

収録曲:

W.A.モーツァルト(1756〜1791):クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ集 K.301~306

使用ピアノ:クリス・マーネ(ベルギー)1995年製作     

      アントン・ヴァルター(ウィーン)1795年製のレプリカ

録音:2000年12月26日〜28日 三鷹市芸術文化センター「風のホール」 発売:2001年9月

 

アーユス・レーベル GECB2083 3,990円(税込価格)

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このディスクは「レコード芸術誌」で「準特選盤」に選ばれました。

モーツァルト21歳、パリで「作品1」として出版されたソナタ集。2つの楽器の対話。極上の室内楽。

レコード芸術 2001年10月号

CD評 モーツァルト:クラヴィーアとヴァイオリンのためのソナタ集 作品1

[推薦]モーツァルトのいわゆる「作品1」の六曲のヴァイオリン・ソナタがピリオド楽器を使ったふたりの若い日本人女性演奏家によってすばらしい演奏で収録されている。今回の二枚組が第一巻とされているので、ソナタ全集が計画されているらしい。今後がますます楽しみなのだが、早くもこの第一弾で多くの聴かせどころを作り、モーツァルトが意図したであろう「作品1」全体の音楽宇宙を見事に描きあげている。この時代の、いわゆるヴァイオリン・ソナタはクラヴィーア・ソナタにオブリガート・ヴァイオリンによる装飾声部が付加されたものが主流であった。しかし、そうした性格を残しながらもモーツァルトは「作品1」で二重奏の醍醐味を開拓してる。そのあたりを大西と小倉がしっかりと掌握して、両者が屈託のない演奏で音楽感興をたしかめている。これほど屈託のない演奏はなかなかない。決して衒学的にならず、ピリオド楽器という意識ではなく、モーツァルト音楽の表現という一点に向けて両者が完全にひとつのコンセプトで意志を疎通させている。その上に立っているからこそ両者は大いに翼を思いきり開いて自由に羽ばたき、飛翔している。このあたり、もしかしたら男性演奏家だとなかなか踏ん切りがつかないところなのかもしれない。二楽章構成を中心とするソナタの調和的響きが三度で連環をなしてゆくことなどもふたりは直感的に、そして、もちろん知識としても把握し、楽章の性格を多彩な音色、緩急、強弱、そしてピリオド楽器ならではの響きの明暗などを駆使して見事に表現し分けている。聴き応え、聴き甲斐のある二枚組だ。(平野 昭氏)

[準]わが国の若い世代に属する時代楽器奏者によるモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集である。モーツァルトの作品は後期の少数の作品を除くと、厳密に言えば、「ヴァイオリン序奏つきのクラヴィーア・ソナタ」の性格を持っているから、その点を考慮すると少なくとも時代楽器による演奏のレーゾンデートルは強くなる。だからと言って演奏の質が高くなければ聴き手にインパクトを与えることはできないわけで、「まず時代楽器ありき・・」という考えからは脱却すべき時期に達しているように思う。

 その点で大西律子と小倉貴久子の演奏の水準はかなり高いと言える。ふたりともそれぞれの楽器の性能を熟知しており、それを音楽の表現に一致させている。

 なによりもふたつの楽器のバランスがよい。モダン楽器による演奏では今日のコンサート・グランド・ピアノがヴァイオリンを圧倒する場合もあるし、それを避けるために音量を下げるとピアノ・パートの魅力が半減してしまう。フォルテピアノ(ここではアントン・ヴァルターのモデルに基づくレプリカが使われている)の場合は、フォルテでもヴァイオリンを圧倒することはない。バロック・ヴァイオリンの音色にはモダン楽器とは違った美しさがあり、響きには潤いがあり、それがフォルテピアノの簡素な響きと結びつくとき、それぞれの機能を保管する役を果たしている。またピッチが低いため演奏全体が落ち着いた情感に基づいていることも魅力である。

 小倉はフォルテピアノの簡素な響きからニュアンスに富んだ表現を引きだしている。ちょっとした経過句でもひとつひとつのタッチが美しい余韻を持っているために、フレーズから独自の魅力を引き出している。大西も感情の昂揚するときは潤いのある響きと引き締まった表情を結びつけて艶のある美しい音で演奏している。結果としてフォルテピアノとヴァイオリンとの対話で音楽が進む場合、演奏にもいきいきとした気分が生まれる。それにはフォルテピアノの歯切れのよいタッチが効果を挙げている。またヴァイオリンのピッチが低いこともモーツァルトの音楽の特徴である長調から短調への傾斜がいっそうメランコリックに感じられる。(高橋 昭氏)