【雑誌《ムジカノーヴァ》2009年3月号】寄稿文

 

特集2 没後200年記念 楽しく弾きたいハイドン

 

音楽の楽しみを伝える仕掛け人〈ハイドンからの贈り物〉

執筆:ピアニスト・小倉貴久子

 

・聴く人、弾く人に喜びを

 からくり人形や、忍者屋敷の仕掛けを考える職人は、「どんな風にして見る人を驚かせようかなぁ・・」と、その巧妙なつくりから秘めごとが明かされる瞬間をワクワクと想像しながら製作していることでしょう。

 ハイドンのピアノ作品を弾いていて、思わぬ仕掛けに出会い、ハッと驚かされることはありませんか? それはハイドンの嬉しそうな表情が目に浮かぶような、いとも楽しき瞬間です。

 ハイドンは存命中、出版譜の売れ行きもナンバーワンの大人気の流行作曲家でした。少年時代の貧しい生活。エステルハージ宮での勤め。芸術に理解がなく、作曲家としての夫の価値が理解できなかった妻マリアとの結婚生活。モーツァルトや同時代の作曲家が、「パパ・ハイドン」と慕ったのは、努力の中から育まれた人間的な大きさに対する尊敬の念が込められていたのです。実生活でたたき上げられたハイドンは、聴く人、弾く人の喜びと楽しみについて常に考えていた音楽家でした。それを実現するためのたぐいまれなユーモアのセンス、つきることのないアイデア。彼の取った作曲についての特許件数は(そんな制度があったなら)、古今東西随一の数にのぼることでしょう。

 

・自然な呼吸感から生まれる音色

 そんなハイドンが残した作品たちを理解するために、21世紀に生きる我々が同じ温度で感じるには、ちょっとばかりの努力がいるようです。

「戯れたり、興奮させたり、笑いをひきおこしたり、深い感動を与える、といったようなすべてのことを、ハイドンほどうまくできる人は誰もいません」と言ったのはモーツァルトです。18世紀に生きた人々の価値観に想いを至し、審美眼を養う必要があるのかもしれません。

 当時、音楽は言葉と密接に関わっていました。連なったいくつかの音をまったく同じ調子で発音することは、ロボットが抑揚なく話すがごとく滑稽極まることと思われていました(事実、ハイドンはわざとそういう表現を用いて笑いをとる工夫をしたりしています)。

 抜いたり、くぐもったり、呼吸感もさまざまに千変万化する音色を操って、フレーズをつくっていくことが求められるハイドンの音楽は、不安定にならないように一音一音しっかりしたタッチが求められる現代の奏法からは生まれにくいものです。ハイドンの音色のパレットに限りはありません。俊敏な軽いタッチから生み出される明瞭な子音により、多彩な表情をもつ音楽を立ち上がらせなければなりません。自然な呼吸を伴わせ、拍節感、拍子感を存分に表出します。

 

・宝箱を開けるように

 ハイドンのピアノソナタのうち初期のものは、「パルティータ」や「ディヴェルティメント」と命名されています。この時代のディレッタント(愛好家)のために書かれた作品は、弾いて楽しむためのもの、もしくはほんの数人で楽しむ親密な空間のための音楽です。演奏会場の大勢の聴衆のための音楽ではなく、もっと「プライヴェートな時間の慰み」と捉えると、ハイドンのセンスが輝きだしてくるのです。

 またハイドンには、深く強い感情表現を投影する作品もあります。1766年から73年に作曲されたシュトゥルム・ウント・ドランク(疾風怒濤)時代のものです。ソナタ ハ短調 Hob.16:20(『ウィーン原典版』第33番)の深い悲しみは、クラヴィコード(金属のタンジェントによって弦を押し上げ、ヴィヴラートも可能な18世紀の作曲家たちに愛された楽器)の表現力で、その悲しみがより一層際立ちます。ハイドンの好んだフォルテピアノは、なかでもタッチの軽いものでした。ハイドンの心の友、ゲンツィンガー夫人に献呈された素敵なソナタ 変ホ長調 Hob.16:49(第59番)についての手紙には、「軽いタッチをもつシャンツのピアノで弾くと2倍の効果がある」と書かれています。悲しみに、美しく郷愁をただよわせた変奏曲 ヘ短調 Hob.17:6は、ゲンツィンガー夫人の死を悼んで作曲されたともいわれています。

 ハイドンのクラヴィーア作品は、個性豊かな宝箱です。一曲一曲に何が入っているのでしょう。さあ!ドキドキしながら包みを開けるような喜びをもって楽譜を開いてみませんか?