《第1回》
ショパンのアンンサンブルを、19世紀のサロンの響きで
ショパンの愛した楽器《プレイエル》とともに
2006年2月26日 アクトシティ浜松音楽工房ホール
2006年3月14日 第一生命ホール
フレデリク・ショパン F.Chopin (1810~1849)
ノクターン 変ホ長調 作品9-2
バラード 第1番 ト短調 作品23
ピアノ三重奏曲 ト短調 作品8
ピアノ協奏曲 第1番(ドイツ初版1833に基づく「室内楽版」)
小倉 貴久子(フォルテピアノ)
桐山 建志(ヴァイオリン)
花崎 薫(チェロ)
白井 圭(ヴァイオリン)
長岡 聡季(ヴィオラ)
小室 昌広(コントラバス)
on period instruments
監修:小岩 信治/平野 昭(静岡文化芸術大学)
19世紀はじめのピアノ協奏曲には、本来フル・オーケストラの曲でも、ピアノといくつかの弦楽器で家庭やサロンで演奏できるものがありました。
この演奏会ではショパンの《ピアノ協奏曲 第1番》が、管打楽器なしの「室内楽版」によって、その古くて新しい姿を現します。《ピアノ三重奏曲》と独奏曲も演奏されました。
東京公演はNHK-BS《クラシック倶楽部》および《BSクラシック倶楽部》でその模様が放映されました。
同じ演奏者によるピアノ協奏曲第1番(室内楽版)とピアノ三重奏曲が、CD[浜松市楽器博物館 コレクションシリーズ9]として発売されています。詳細はこちらまで。
今回浜松と東京で行われた公演は、静岡文化芸術大学(浜松市)における研究活動、浜松市楽器博物館所蔵の19世紀の名器(東京初登場)、トリトン・アーツ・ネットワーク/第一生命ホールの演奏会企画、そしてすばらしい演奏家たちが揃って初めて可能になった、一つの「アンサンブル」です。19世紀のピアノ音楽文化と演奏受容のあり方に新しい光をあてる、浜松発の世界的にも珍しい演奏会でした。
当時の楽器、当時の楽譜、当時の奏法で
新しいショパンの音楽が見えてくる。
--小倉さんは浜松市楽器博物館とご縁が深いということですが、今回このコンサートでお弾きになるプレイエルにもここで出合われたんですか?
小倉 プレイエルは、ヨーロッパでオリジナルを弾いたことがあります。この浜松の博物館には2台のプレイエルがあって、1台は今回弾く1830年製のもので、もう1台はもう少し時代が下った新しいものです。1830年製のほうは今まで門外不出だったんですが、今回静岡文化芸術大学の研究事業の一環として、初めて外に出ることになったわけです。
--今回は、このプレイエルというピアノが素晴らしい、というところからすべてがスタートしているように思えるんですが。
小倉 音としては、とても軽やかで香りがある、という感じなんですね。同じフランスのエラールのほうがもっと重い音が出ます。ショパンはプレイエルとエラールを好んで弾いたんですが、非常に気分の良いときはプレイエルを弾いた、といいます。エラールに比べるとプレイエルは弾くのが難しいのですが、自分の心の襞に寄り添って音を出してくれる、ということだったようです。ショパンはよくピアノ詩人といわれますが、そんなポエティックな部分を表現するのにこのピアノが非常に適していた、ということでしょうね。シューマンがショパンの演奏を評して「ペダルを踏み替えるたびに音楽の香りが変わっていくようだ」などと言っているのですが、プレイエルでやってみると、なるほどと思わせるものがあります。それから、現代のピアノは弦を音域によって交差させて張っていますが、このピアノはまだ弦を平行に張る平行弦なんですね。ですから、音量は小さいのですが、音域によって音色が変わってきます。音が混ざらないんですね。その結果、音域ごとに音に特徴があり、中音域で伴奏型を弾きながら高音域でメロディを弾くと、くっきりと通る音で聴こえてきます。
--第一生命ホールは700席ほどなんですが、ちょうど良く聴こえそうですね。
小倉 そう思いますね。特に今回はフル・オーケストラが伴奏するのではなく、弦楽五重奏の編成による室内楽版によって演奏しますから、プレイエルと弦楽器がよく共鳴して、細かい音の動きとか、音色の変化を楽しんでいただけると思いますし、今の私たちにとって新しいショパンの音楽が見えてくるのではないかと思います。
--本来こういう形での演奏というのは、演奏者と聞き手が同じ平面にいて行われていたものですが、その感じを少しでも味わっていただきたいですね。
小倉 プログラムの《ノクターンop.9-2》は、ショパンがプレイエルの奥さんに捧げた曲です。《ピアノ三重奏曲op.8》は決して演奏される機会の多い曲ではありませんが、すごく良い曲です。この作品を昔のプレイエルで弾くというのはごく稀なことでしょうね。時代的にもぴったりです。弦楽器はクラシック・ボウ(弓)を使います。
私は今回、ロマン派奏法にこだわってみたいと思っています。例えば、ショパンといえばルバートが特徴といわれていますが、現代の私たちが考えている以上のテンポ・ルバートをショパンはやっていたんじゃないか、と思います。これは当時の演奏について作曲家のフンメルが書いていることなどを背景としているんですが、ショパンが弟子の楽譜に書き残しているものを見ても、その弟子の力量に応じてかなり自由に書き込んでいます。おそらく自身が弾くときも、毎回かなり自由に即興的に弾いていたのでは、と考えています。
--きちんと調べたわけではありませんが、当時の楽器を使い、当時の楽譜を用い、当時の奏法でショパンの協奏曲やそのほかの作品を演奏するというのは、いままでになかったことだと思います。その意味でもどんなショパンが聴けるのか非常に興味があります。
小倉 ずっとこういうコンサートをやりたいと思っていたんですが、なにしろ自分一人の力ではできないところがありました。今回は浜松市楽器博物館と静岡文化芸術大学、そして第一生命ホールのご協力で実現することができました。
--大いに意義のあることと期待しています。お話、ありがとうございました。
[2005年12月21日、TANにて。聞き手/児玉 眞]
ムジカノーヴァ 2006年5月号 巻頭ページ
スリリングで充実した「当時の響き」
ショパンのアンサンブルを、19世紀のサロンの響きで
「ショパンのアンサンブルを、19世紀のサロンの響きで」は、浜松にある静岡文化芸術大学が研究活動の一環として企画と資金を出し、浜松市楽器博物館が所蔵楽器を東京へ送り出し、小倉貴久子(フォルテピアノ)をはじめ桐山建志(Vn)、白井圭(同)、長岡聡季(Va)、花崎薫(Vc)、小室昌広(Cb)らスペシャリストたちの演奏を得て、第一生命ホールが共催公演として会場を提供した、まさに「浜松発、東京から世界へ発信するコンサート」である。大学、博物館、ホール、演奏家はそれぞれ単独でもコンサートを実現することができる。しかし、この四者がひとつの力となったとき、どれほどスリリングで充実した「音楽の場」が生まれることか。
今回、浜松から運ばれたピアノは、イギリス式突き上げ式アクション、シングル・エスケープメントの1830年製のプレイエルである。ショパンはポーランド時代にはドイツ式アクションのピアノを用いていたらしいが、1831年にパリに出てからは、イギリス式アクションのエ
ラールとプレイエルを愛奏し、とくに気分の良い日はプレイエルを弾いたと言われる。今回演奏されたのは《ピアノ三重奏曲》作品8、《ノクターン変ホ長調》作品9の2、《バラード第1番》、そして《ピアノ協奏曲第1番》で、いずれも1828~35年の作品で、まさに演奏される作品と同時代のピアノである。
とくに興味深かったのは、メインの曲目である《ピアノ協奏曲》がオーケストラ伴奏ではなく、弦楽五重奏で演奏されたことだった。これは決して演奏者(経費?)を節約するためではなく、当時のピアノ協奏曲は、すべてのパート譜を買わなくても、弦楽器のパート譜だけを買うと、そこに管楽器の重要な旋律が小さな音符で記されており、それらを補いつつ弾くことで室内楽編成でも演奏できたという事実から判断されたものである。当時、協奏曲はむしろそうした形態で広まっていった。つまりそれが「当時の響き」なのである。
プレイエルとこの室内楽編成でショパンのピアノ協奏曲を聴くと、まずはオーケストラ・パートが決して貧弱ではなく、各声部がそれぞれ自己を主張しつつピアノと対等に絡み合い、全体としてはむしろ複雑で密なテクスチュアを作っていることが分かる。ちなみに弦楽器はモダン楽器だが、ガット弦を多く張り、モダン弓より張力の弱い当時のクラシック弓が用いられた。そのなかで、ピアノは現代のピアノに比べて音量こそ小さいが、一音一音の粒立ちがきわめて明瞭で、その軽くて明るく柔らかい音は弦楽器とよくなじむ。各楽器が溶け合って一体化するというのではなく、それぞれが分離して聴こえながら、一方が他を圧することのない、バロックのアンサンブルのような自由さがそこにはある。
とくに印象的だったのは、ショパンというとまずカンタービレな旋律の美しさが頭に浮かぶのだが、それにも増して、第1楽章展開部や第3楽章で繰り広げられる音階や分散和音などによる速いパッセージの連続が抜群の演奏効果を示すことだった。はるかに鍵盤が重く、音の立ち上がりが遅い現代ピアノでは、鍵盤を打ち抜くように弾く和音やオクターヴが圧倒的な迫力をもつのに対し、速い運動的なパッセージはどうしても軽く聴こえてしまう。しかし、鍵盤が軽く、音の立ち上がりの速いプレイエルでは、和音よりむしろ急速なパッセージのほうが楽器もよく鳴り、圧倒的なヴィルトゥオーゾ性が発揮される。
しかも、そういうパッセージはショパンではつねに非和声音を含んでおり、それが演奏困難さの一因でもあるのだが、プレイエルでその細部までがよく聴こえ、つぎつぎに現れるパッセージの変化を追ううちに大変なスリルとスピード感を味わえる。この点に関し、腕や上体全体を使おうとするモダン・ピアニストより、もっと手首から先のほうにタッチの要点があるフォルテピアノ奏者としての小倉貴久子の奏法ははるかに有利にみえた。
ショパンは古典的な作曲家だというが、その一面がこうした音の身振りそのものに浮かび上がったことも含め、通俗的なショパン観をちょっと揺さぶるコンサートだった。 〈岡田 敦子氏~ピアニスト、音楽評論~〉
音楽の友 2006年5月号 Concert Reviews
ショパンのアンサンブルを19世紀のサロンの響きで
小倉貴久子による、浜松市楽器博物館所蔵の1830年製プレイエル・ピアノを使ったショパンのコンサート。
まずは小倉と桐山建志(ヴァイオリン)、花崎薫(チェロ)による「ピアノ三重奏曲」。楽器の特性だろうがやはり軽やかで華やか、また上品な響きに音場が満たされる。この作品は若書きということもあって、各楽器の旋律線が一定の方向を向いていないためアンサンブルとしての構築には多少困難があるが、この楽器を組み合わせると不思議と調和し、説得力がある。音色変化もグラデーションを描くように幅広いし、おそらくタッチも相当軽いのだろう。
ピアノ・ソロ「ノクターン」Op.9-2や「バラード第1番」では、煌めくような高音、伸びやかな中音域、そして存在感のある低音と、それぞれがくっきりと主張しながら見事な和声感を織り成す。
白井圭(ヴァイオリン)、小室昌広(コントラバス)を加えた弦楽五重奏が伴奏する「ピアノ協奏曲第1番」も、端正で隙のない構築、洗練されて艶やかな音色、そして自由なルバートを駆使し、抒情が心に染み入るようなショパンを映し出した。(3月14日・第一生命ホール)〈真嶋 雄大氏〉
《第2回》
ベートーヴェンのアンサンブル
A.ヴァルターのフォルテピアノとともに
2007年1月13日 アクトシティ浜松音楽工房ホール(Aプログラム)
2007年2月8日 静岡音楽館AOI(Bプログラム)
2007年3月3日 第一生命ホール(Aプログラム)
Aプログラム[浜松・東京公演]
L.v.ベートーヴェン
ピアノ協奏曲第4番「原典資料に基づく室内楽稿」H.-W.キューテン編 作品58
交響曲 第2番「ピアノ三重奏版」 作品36
ピアノ・ソナタ 第17番 ニ短調 〈テンペスト〉作品31-2
Bプログラム[静岡公演]
L.v.ベートーヴェン
交響曲 第2番「ピアノ三重奏版」 作品36
ヴァイオリン・ソナタ ヘ長調 〈春〉作品24
《魔笛》の主題による変奏曲 作品66
ピアノ・ソナタ 第8番 ハ短調 〈悲愴〉作品13
[静岡文化芸術大学の室内楽演奏会2]
静岡文化芸術大学がお届けする室内楽シリーズ第2弾のテーマはベートーヴェン。室内楽編成の《ピアノ協奏曲 第4番》など、あるときはオーケストラ風に響き、あるときは独奏の美しさを湛えるアンサンブルの世界を、再び浜松市楽器博物館のフォルテピアノとともに、名手たちの演奏でお楽しみいただきました。
小倉 貴久子(フォルテピアノ)
桐山 建志(ヴァイオリン)
花崎 薫(チェロ)
高木 聡(ヴァイオリン)*
藤村 政芳(ヴィオラ)*
長岡 聡季(ヴィオラ)*
on period instruments
*Aプログラムのみ
【使用楽器】
Aプログラム(浜松・東京)使用楽器
A.ヴァルター作 Anton Walter & Son (Vienna, c1808-10)
はね上げ式 シングル・エスケープメント 73鍵 浜松市楽器博物館所蔵
Bプログラム(静岡)使用楽器
ヴァルターをモデルにしたマーネ作 Chris Maene (1995) after A.Walter (1795)
はね上げ式 シングル・エスケープメント 63鍵 小倉貴久子蔵
当公演関連CD:浜松市楽器博物館コレクションシリーズ7「舞踏への勧誘〜ウィーンの音・ワルター・ピアノ〜」:小倉貴久子が《ピアノ・ソナタ 第26番》変ホ長調「告別-不在-再会」作品81aなどを演奏。公演時のフォルテピアノを使用。詳細はこちら。
まさに
『浜松発、東京から世界に発信するコンサート』である。大学、博物館、ホール、演奏家はそれぞれ単独でもコンサートを実現することができる。しかし、この四者がひとつの力となったとき、どれほどスリリングて充実した“音楽の場”が生まれることか。(岡田敦子氏、『ムジカノーヴァ』2006年5月号より)
ショパンの《ピアノ協奏曲第1番》「室内楽版」を中心にした演奏会「ショパンのアンサンブルを、19世紀のサロンの響きで」(2006年2〜3月)に対して、岡田氏をはじめ多くの方々から高い評価をいただき、ご好評にお応えして、当初1回限りの予定であったプロジェクトを全3回のシリーズに拡充することになりました。
全回を貫くテーマは、ピアノという楽器とピアノ付きアンサンブル音楽の変貌です。19世紀序盤のピアノは、現代とは異なる特性をもち、地域ごと、個体ごとの違いがはっきりしていました。そして弦楽器との合奏のなかで、20世紀のピアノとは明らかに異なる魅力を放っていました。第2回までにそのことは明らかになるでしょう。しかしやがてピアノはかなり標準化され、「わたしたちの知っているピアノ」に近づいていきます。そのことを端的に示しているのがピアノ協奏曲というジャンルです。このジャンルは、ショパンやクララ・ヴィークの時代まで、オーケストラ曲でも室内楽でもあり得たのですが、やがて「室内楽としては存在できない」、大オーケストラとパワフルなピアノが対峙する音楽としてその姿を確立します。そして、ピアノ協奏曲「室内楽版」がその使命を終えるのと入れ替わるように、新しい姿のピアノに対応するようなピアノ付き室内楽(五重奏など)の本格的な歴史がスタートします。シューマンの《ピアノ五重奏曲》は、そのような時代を象徴しています。
ピアノ文化史の変遷を体感していただくために、浜松市楽器博物館のコレクションのなかから19世紀初めの楽器が毎回1台、浜松の「鳴り響く文化財」として東京にお目見えします。そして、この時代の音楽の演奏で高い評価を受けているスペシャリストたちが、単なる過去の再現ではない生き生きとした音楽をお届けします。世界的に貴重なこのプロジェクトを、どうかお聞き逃しなく。
「静岡文化芸術大学の室内楽演奏会」監修:小岩信治・平野昭
《第3回》
クララ&ロベルト・シューマン
愛、輝きと優しさ
クラヴィーア・アンサンブル◇グラーフのフォルテピアノとともに
2008年2月23日アクトシティ浜松音楽工房ホール、
2008年3月2日第一生命ホール
[静岡文化芸術大学の室内楽演奏会3]
監修:小岩 信治・平野 昭
小倉 貴久子(フォルテピアノ)
桐山 建志(ヴァイオリン)
藤村 政芳(ヴァイオリン)
長岡 聡季(ヴィオラ)
花崎 薫(チェロ)
笠原 勝二(コントラバス)
on period instruments
クララ・シューマン ピアノ協奏曲 イ短調 作品7 〈室内楽版〉
ロベルト・シューマン ピアノ五重奏曲 変ホ長調 作品44
ロベルト・シューマン 「謝肉祭」 作品9
【使用楽器】
C.グラーフ作 Conrad Graf (Vienna, 1820?)
浜松市楽器博物館所蔵
ロマン派音楽の作曲家ロベルト・シューマンの創作は、とくにピアノという楽器を介して、妻クララと強く結びついていました。クララ・ヴィークの作曲家・ピアノ奏者としての卓越した才能を示す《ピアノ協奏曲》イ短調(1833-36年)は、のちのロベルトの名作《ピアノ協奏曲》イ短調に向かう二人の共同製作の重要なステップでした。ほぼ同じ時期にロベルトがまとめた《謝肉祭》(33-35年)は、本格的なピアノ・ソロ曲の作曲家としての彼の傑出した才能を知らしめた作品。二人は1840年に結婚し、それがロベルトの「歌の年」として、そして翌々年の「室内楽の年」として、創作にも豊かな実りをもたらしました。1842年のロベルトの《ピアノ五重奏曲》は室内楽史の一つの頂点であり、ピアノを通じて結ばれていた二人の輝かしい音楽世界を今日に伝えています。三たび浜松市楽器博物館の歴史的ピアノを使って、小倉貴久子ほかスペシャリストたちが揃ってお届けする演奏、今回もご期待下さい。
「静岡文化芸術大学の室内楽演奏会」監修:小岩信治・平野昭
[The Interview インタビュー]
小岩信治(静岡文化芸術大学准教授)さんが
小倉貴久子(フォルテピアノ奏者)さんにきく
19世紀のピアノを使って
シューマン夫妻がピアノに求めた
夢を表現したい。
小岩:フォルテピアノ奏者として大活躍の小倉さんですが、ふだんは現代のピアノは弾きますか。
小倉:よく弾きます。時間ができると弾くのはショパンのエチュードですね。
小岩:東京芸大ではピアノ科だったわけですしね。学生時代にはどんな曲を?
小倉:ストラヴィンスキーの《ピアノと木管・打楽器のための協奏曲》を弾く機会などもありましたが、やはりシューマンですね。シューマンは学生時代から惹かれていた作曲家です。だからこそ、初めてのリサイタルでも《謝肉祭》をとりあげました。
小岩:それは小倉さんの最近の演奏活動からはあまり想像がつきませんね。TANとの協同制作である「静岡文化芸術大学の室内楽演奏会」の最終回「クララ&ロベルト・シューマン 愛、輝きと優しさ」を準備してきましたが、小倉さんにとってシューマンがそれほど大切だということを実は今日まで知りませんでした。結果的に小倉さんの「心のふるさと」である作曲家を選ぶことになってよかったです。
小倉:確かに歴史的ピアノでの演奏をあまりしていませんが、それには楽器の問題も大きいです。シューマンのピアノ曲に合う楽器がなかなかないのです。今回このようなかたちで演奏できるのはほんとうにうれしいですね。
小岩:昨年の「ベートーヴェンのアンサンブル」ではアントン・ヴァルターの1810年ころのピアノでした。今回のコンラート・グラーフの楽器はそれよりも少なくとも10年以上あとの楽器ですね。どんな点で違いますか?
小倉:依然として現代のピアノとは異なる世界ですが、ヴァルターの硬質な響きに比べるとはるかに豊かでやわらかい響きです。ロマン派の香りがしますね。6オクターヴ半の楽器で、弦を打つ1つ1つのハンマーはさらに大きくなっています。グラーフのピアノのなかでも特別仕様なのか、白鍵に貝が貼られています。
小岩:弾きにくくないのですか?
小倉:自然の素材だからなのか、意外と指になじみます。
小岩:そのような楽器を使っての《謝肉祭》や《ピアノ五重奏曲》にはどのような魅力があるのでしょうか。
小倉:シューマンの場合、大ホールで効果を発揮するというより、ピアノのそばにいる大切な人1人に語りかけるというタイプの独奏曲が多いと思います。《謝肉祭》は外向きな要素もあり、華やかですし、必ずしもその典型ではありませんが、それでも彼の内面の変化がつぎつぎと現れます。マスに訴える音楽ではありません。歴史的な楽器は、そうした彼の音楽の特質を伝えるためにとても重要です。《ピアノ五重奏曲》は弦楽器との響きがとても楽しみですね。この時代のピアノと弦のバランスが、自然な響きとなって聞こえてくるはずです。弦楽器に対峙するためにピアノが全力でぶつかることもあるでしょう。現代のピアノなら室内楽で弦楽器を圧倒するパワーが潜在的にありますが、グラーフの場合はそのような余裕はなく、だからこそ生まれるような真剣勝負の局面があると思います。それは、第一生命ホールのような比較的小さな(といってもシューマンの時代のサロンと比べればずいぶん大きいですが)空間でこそお楽しみいただけるものでしょう。
小岩:そしてもう1つ、このシリーズで毎年室内楽編成で演奏されるピアノ協奏曲、今回はクララ・ヴィーク(シューマン)です。
小倉:クララはパリなどヨーロッパ各地に演奏旅行して、当時の多面的なピアノの世界をよく知っていたピアニストです。ただ、やがて彼女の夫となるロベルトはウィーン・タイプのピアノを好んでいた人ですし、彼女がロベルトの手を借りながら作ったこの作品が目指していたのはおそらく、ウィーンを中心とするピアノ文化で映える音楽だったのでしょう。今回の演奏会を通じて、シューマン夫妻がピアノに求めていたものを表現できたらと思っています。