小倉貴久子 活動の記録

1996年

☆4月4日 カザルスホール

ブルージュ国際古楽コンクール優勝記念 小倉貴久子 ピアノ協奏曲の夕べ

共演:オーケストラ・シンポシオン 坂本 徹(指揮)

ハイドン クラヴィーア協奏曲 ニ長調、モーツァルト クラヴィーア協奏曲 第9番

 

朝日新聞 1996年4月15日(月) 夕刊「音楽会から」

 めったに一位を出さないというブルージュ国際古楽コンクールで去年、フォルテピアノ部門で九年ぶりの優勝者になった経歴に誘われ、小倉貴久子のフォルテピアノによる協奏曲を聞いて、新しい才能に出会うよろこびを感じた。曲目はハイドンのニ長調、モーツァルトの変ホ長調「ジュノーム」(四日、東京・カザルスホール)

 自分を音楽のなかに解放しているのがいい。緊張から硬くなり、表情が小さくまとまることなく、伸びのび、らくらく弾けている。見た目にも、腕と手だけでなく、いわば全身で演奏し、からだ全体が柔軟に音楽に反応している。楽器になじんで、仲がいい。

 アムステルダム音楽院にはピアノで留学したが、やがてこの初期ピアノを独学で始めたというから「性」が合っているのだろう。それが分かる演奏。いいたいこともいっぱいあるみたい。リズムは生きいきと弾んでフレーズは明快。強弱の幅も広く、大きな息づかいのなかから音楽がよく語りかけて学究的な古臭さがない。そして技巧は的確。あと、表現に独自な香りが加わればといったところ。

 ハイドン。第一楽章では例のはつらつとした楽想を思いきり解放し、流れ流れてよどみがない。かと思うと第一、とりわけ第二楽章のカデンツでは楽曲のきめに深く分け入って幻想味を紡ぎ出す。そして第三楽章。作曲家に固有の晴朗そのものの急速なハンガリーふうロンドをスリリングな快速調で駆け抜けた。

 モーツァルト。前曲同様、譜めくりを自分で落ち着いてこなし、第一楽章を表情ゆたかに運び、アンダンティノをたっぷり語ったあと、第三楽章ではプレストの主要部を一気に弾きあげ、つづくテンポを落としたメヌエット部分ではあでやかさを際立たせて耳をひく。

 伴奏はオリジナル楽器によるオーケストラ・シンポシオン。指揮・坂本徹。一曲目、モーツァルトの交響曲・イ長調K二〇一では第四楽章に生気がみなぎっていた。秋から定期を始めるらしい。こっちにも期待。

    中河 原理氏  音楽評論家

 

讀賣新聞 1996年5月7日〔火) 夕刊「文化」

小倉貴久子と「シンポシオン」演奏会 古楽演奏の新展開予感 随所で炸裂する仕掛け、歴史的文脈からも自由

 最近、ある夜の演奏会で、新しい音楽に出会った。新しい、といっても最新の現代音楽というわけではない。その演奏会の曲目は、十八世紀のハイドンとモーツァルトの作品であった。四月初めの東京。登場した演奏家たちは、女性のフォルテピアノ独奏者と、誕生したばかりの十七人の男女からなる日本の管弦楽アンサンブル。彼らはある作品を演奏するにあたって、作品が生まれた時代のものと同じタイプの楽器、いわゆる古楽器(オリジナル楽器、時代楽器ともいう)を使う。

 新鮮に響いた旋律

 古典派の名曲の古楽器による演奏に、あえて新しいという言葉を使ったのは、二つの意味がある。一つは、聴きなれたハイドンやモーツァルトの作品が、まるで今生まれたばかりの音楽であるかのように、新鮮に響いたこと。演奏会最初の曲目であるモーツァルトの交響曲第二十九番が始まるとすぐ、それはわかる。古楽器による演奏の特徴である、ヴィブラートを控えた弦の澄んだ響きと、歯切れよく語りかけるようなフレージングを武器にして、快適なテンポで疾走する演奏。その随所で、聴き手の注意を一瞬もそらさない、さまざまな仕掛が炸裂する。

 たとえば弦楽器が各パートのトップだけの演奏となって響きのテクスチュアに多彩な変化をつけたり、コンサートマスターが楽譜にない装飾を自由自在に加えてみたり。楽譜に指定されている反復をすべて実行する長尺の演奏にもかかわらず、こうした変化のおかげで聴き手はつきせぬ耳の悦びと共に、反復の必然性を会得する。続いてフォルテピアノ奏者が登場し、ハイドンのニ長調とモーツァルトの「ジュノム」の二曲の協奏曲を演奏する。フレーズを口ずさみながら「全身音楽家」と化して激しく音楽に投入してゆく即興性にあふれた彼女の演奏には、まるですぐれたジャズ演奏を聴いているかのような興奮をおぼえた。ここではハイドンもモーツァルトも、「古典」と呼ばれる安定した場所にとどまらず、現代の私たちを刺激する新しい音楽として鳴り響いている。

 もちろん、いささか逆説めくが、古楽演奏が曲を新しく感じさせるのはある意味で当然である。二十世紀後半の古楽演奏は、十九世紀以降の伝統的な解釈を疑い、楽譜というテクストの読み直しを通じて演奏/解釈の新たな可能性を探る試みであるからだ。「様式」や「歴史的正統性」といった要素と綿密に結びついているせいか、時に衒学的な印象を与えるが、実際には、作品と演奏との関係を根底から問い直す非常にラディカルな性格を備えている、と言える。

 加えて、ここで二つ目の新しさ、つまり彼らの演奏そのものの新しさについて述べたい。つまり、どんなに過激な表現になっても古楽演奏が足を踏みはずそうとしなかった「歴史的な」文脈からも、彼らの演奏は自由になろうとしていたのである。正確に言うならば、彼らにとって、もはや歴史的な認識は前提として身体にインプットされたものであり、それを武器に、何かおもしろいことを仕掛けてやろうという最良の遊び心に満ちた実験を行っているのだ。アンコールで再び演奏されたハイドンの協奏曲の終楽章では、原曲の民族的要素を強調すべく、なんと弦楽器奏者たちが楽器を叩き始めた。

 多士済々のメンバー

 紹介が遅れたが、演奏家たちは、フォルテピアノが小倉貴久子、アンサンブルは坂本徹指揮の『シンポシオン(ギリシャ語で「饗宴」)』という名のグループ。小倉も含めたメンバーの経歴を見ると、現代楽器オーケストラの団員だったり、フュージョンも手がけていたり、多士済々である。彼らは音楽学者を監修者として迎え、バロックから現代までのレパートリーを各時代の同時代楽器を使用して演奏してゆくという。ジャンルという横軸を軽々と往来する演奏家たちが歴史という縦軸を自由に駆けめぐる   その柔軟な姿勢は、古楽演奏の新しい展開を予感させる。

 しかし、近年の日本の古楽演奏シーンにおいて、これは単発的な現象ではない。現代楽器と古楽器、古楽と他ジャンルの音楽との間を自在に行き来する、新しいタイプの演奏家たちが増えている。

 現代楽器オーケストラである東フィルのコンサートマスターを経て古楽器に取り組む、ヴァイオリンの寺神戸亮。現代的なファッションに身を包んで鮮やかにスカルラッティを弾き、現代楽器の奏者とも共演するチェンバロの曽根麻矢子。ラモーの瀟洒な演奏を聴かせつつ、一方でジョプリンのラグタイムもチェンバロで弾いてしまう中野振一郎。あるいは日本歌曲を演奏活動の原点におく、異色のカウンターテナー歌手米良美一。さらには、中世・ルネサンス音楽を基礎にしながらオリジナルな創作活動も行うグループ「タブラトゥーラ」など、枚挙に暇がない。一方で、ハープの吉野直子やギターの福田進一など、現代楽器の弾き手たちが古楽器を手掛けるケースも増えてきている。

 世界的レベルで評価

 有田正広や渡邊順生、鈴木雅明といったすぐれた音楽家たちによって、日本の古楽演奏は世界的なレヴェルで高く評価される存在となった。その豊かな土壌に育まれた若い音楽家たちが今、古楽/モダンの二分法を乗り越えた、新しい演奏表現の可能性に向かって疾走している。その先にどのような未知の風景が広がるのか、期待を込めて見守りたい。

 矢沢 孝樹氏(やざわたかき) 水戸芸術館コンサートホールATM学芸員 一九六九年山梨県生まれ。慶応義塾大学仏文学科卒。共著に「古楽演奏の現在」「古楽への招待」がある 

 

☆5月13日 かつしかシンフォニーヒルズ アイリスホール

小池久美子、小倉貴久子 ジョイントリサイタル 「孤独と愛と夢」

共演:小池久美子(ソプラノ)

シューベルト:「即興曲」より、ガニュメード、メンデルスゾーン:厳格なる変奏曲 作品54、「歌の翼に」 他

 

○11月16日 さわやかちば県民プラザ ホール

ピアノコンサート「名曲再発見」

シューベルト:「即興曲」より 他

 

☆12月9日 ヴォーリズホール(お茶の水スクエア内)

シリーズ音楽の玉手箱 Vol.1 ~サロンで楽しむ小粋な音楽会~

共演:村谷祥子(ソプラノ)、小田 透(ヴァイオリン)、安田和信(お話)

J.ハイドン:スコットランド民謡集より、アリア「ベレニーチェ、何をしているの?愛する人が死ぬというのに・・・」

W.A.モーツァルト:ヴァイオリンソナタ 変ロ長調 K.454、クラヴィーアソナタ 変ロ長調 K.333、アリア「彼女を愛します、私は一生涯ずっと・・・」(歌劇「羊飼いの王様」K.208より)

~サロンで楽しむ小粋な音楽会~

ハイドンがスコットランド民謡をソプラノ、ヴァイオリン、クラヴィーアという編成に編曲したトリオ。モーツァルト10代最後の年に作曲されたオペラ、「羊飼いの王様」からヴァイオリンのオブリガートつきのアリア。また、作品7としてウィーンで同時に出版されたヴァイオリンソナタとクラヴィーアソナタ、他をとりあげました。